2日目の日記

 自分の原風景について考えるようになった。年齢のせいかもしれないが,たぶん違っていて,3年ほど前に実家が引っ越したからだ。戦後すぐからその場所にあったと思われるほど古い家だった。リノベーションによりきれいになってはいたが,私も生まれた時から東京に出てくるまで住んでいた家で,リノベする前のことも知っていて,あれは確かに古かったといえる。国の用地買収で家も畑もすべて国のものになって,今は更地になっている。実家の引っ越し先は同じ静岡県内で,私の親が暮らしている。

 私の原風景はあの引っ越し前の静岡県西部の実家周辺の景色だ。畑と田んぼしかない田舎。生活排水がそのまま流れ込む川は洗剤の泡がたち,空中に舞うほどで,山林には産廃も捨てられていた。そういう時代だったのだ。でも,あの環境を今思い出してみても嫌悪感はない。自分にとっては大切な原風景になっている。

 引っ越しには私も賛成したが,やはりあの家があの場所から消えて寂しいのだと思う。そして,どんな環境でもその人にとって大切なものになりうるのだということが分かった。きっとその当時の私を取り巻いていた環境がその原風景を私にとって大切なものにしているのだ。それに,もうそこに住むことはできないということも大きな要因だ。失われたことで原風景として定着したもう訪れる可能性が極めて低い場所の光景。人間の記憶のなせる技だ。

 写真は本文とは関係ない東武の昔のバス。

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